小林貴子作家小論

 滝壺あり…………堀本裕樹

 本句集を読み終えて感じたことを大概的に三つの言葉にするならば、「情熱」「壮大」「諧謔」であろう。これはあくまで私の浅薄な分類であり目利きが読めば、さらなる多様な彙類や解釈が生まれるだろうが、ここに作品を採り上げながら私なりに観ていきたい。

  豪胆に生きよと空に虹を引き

  磯巾着磯巾着と闘へり

  言ひ果おほ)せたるかと訊けり凩に

  もう離れたくない花冷の二人

 一句目は「豪胆に生きよ」の台詞に「情熱」を感じる。「空に虹を引き」の措辞は天地万物を生んだ造化の声の表象か父性的な啓示のようにも思える。

 二句目は磯巾着の闘争を捉えることで、人間以外の動物の情熱を感じ取った。なぜ闘っているのかはわからぬが、海中での互いの触手の揺れに静謐な熱情が伝わってきた。

 三句目は『去来抄』にある芭蕉の言葉「謂ひ応せて何かある」を借りつつ、「凩」を凝視している。凩に吹かれながら、それを詠んではみたが、果たして出来はどうなのか。表現し尽くしてはいないだろうか。そんな作句への情熱的な問いを凩にぶつけているのである。

 四句目は花冷のなか、二人の熱い恋情が燃え上がっている。「もう離れたくない」ということは、事情があり離れていた時期が長かったのだろう。本句集には情熱的な恋の句も散りばめられている。

  

  水泳の勝者は水を打ち叩き

  勝馬の走り流せる涼しき目

  凱旋の如薯蕷を掲げ来る

 この三句はどれも勝利を勝ち取った内容であり情熱の極みとして挙げておきたい。ただ単に感情的に情熱を描くのではなく、写生的な慧眼が存分に活かされた秀句である。

  星の位置変るまで花見てをりぬ

  熊野の夏大斎原は宇宙卵

  転がしてみたき月輪枯野原

  神楽笛夜更けて渡る月は舟

 「壮大」な作品としての一句目は、遠近法が効いた夜更けの雄大な花見の景だ。夜桜の向こうに広がる星々の推移を捉えることで、飽かぬ花見の情景を引き立てる。花見に天体観測まで加わった壮大さ。

 二句目は熊野本宮大社の旧社地・大斎原(おおゆのはら)を「宇宙卵」と見立てたところがおもしろい。熊野は胎蔵界であり子宮であると宗教哲学者の鎌田東二氏が言及しているが、「宇宙卵」という発想もそれに通ずる。掲句には始原的且つ壮大な熊野観が見られる。

 三句目は月を転がしてみたい願望が壮麗である。しかし枯野原でそれを行いたいという寂寥が滲む。どこか輪回しや江戸時代の箍回しの遊戯にも重なる光景である。

 四句目は「神楽笛」が「月」へと昇ってゆく垂直的で勇壮な風景が目に浮かぶ。「月は舟」の措辞は、 柿本人麻呂の一首「天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」の「月の舟」を想起させる。この歌自体、大空を海に、そこを渡ってゆく月の動きを行く舟に譬えた壮大な見立てだが、掲句は神遊の歌舞音曲が深夜の月の運行を大いに盛り立てる役割を果たしている。

  

  青柿は厚ざぶとんの形なり

  巣立ち時磯鵯のぽやぽや毛

  結構違ふよ団栗の背くらべ

 

 「諧謔」のある作品としては一句目、「青柿」を「厚ざぶとん」と見立てたユーモアがある。見立てには時に意外性が必要だが、まさに掲句で示されることで「そういえばそうだ!」と気づかされる。季語「青柿」の写生にもなっており比喩が動かない。

 二句目は「ぽやぽや毛」に笑った。「あほ毛」ともいうらしいが、人のまとめた髪の表面から跳ね出てくる短い毛を指す「ぽやぽや毛」を磯鵯の子にも認めたのだ。眼差しが非常に愉快である。

 三句目は一読してくすくすと笑いが漏れた。「団栗の背くらべ」という諺を逆手にとって、「いや、実際比べてみるとけっこう背の高さが違うよ」と詠んでいるのだ。これもユーモラスだけど写生の眼が効いている。十把一絡げに物事を見ずに、自らの視点を大事にして「団栗」の一面を捉え直した俳人の洞察力が光る。

  骨壺の如く滝壺ありにけり

  いやよいやよと滝壺を水出てゆかず

  滝は男なり滝壺は女なり

 最後に「滝壺」の言葉を用いた三句を挙げるが、同じ語を使っても全く角度の違う斬新な切り口を物する力量に舌を巻いた。滝壺の様相を変化させたように思える各句だが、その本意と心髄は外さない。そこに作者の美意識が貫かれた諷詠における黄金分割を見た。

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